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大東亜戦争ニュース・2015/8
満洲・ソ連侵攻
2015・8・31 産経ニュース (1/4ページ) 文化部編集委員 喜多由浩  【満州文化物語(5)】
ジェームス三木、「エリート一族」の無念 「皆を連れてきて申し訳ない」と祖父が涙ながらに…
「記事内容抜粋」
スケート、舟遊び、三角ベースの野球に戦争ごっこ。
当時、世界最高級と謳(うた)われた満鉄の特急「あじあ」のさっそうたる雄姿にあこがれた。
露店で売られるマントウや、さんざしの実が食べたくて仕方なかったが「不衛生だ」と買ってもらえなかったという。
やがて、戦争の影さえなかった満州に不気味な足音が忍び寄ってくる。
昭和20(1945)年8月のソ連軍(当時)の満州への突然の侵攻。
いっぱしの軍国少年だった三木はソ連軍が奉天近くまで迫ってきてなお、「満州には最強の関東軍がいる。日本が負けるはずがない」という大人の言葉を固く信じていた。
  楽園から地獄へ  弟を捨ててしまいたい  
中略
あの終戦の年、祖父の家で過ごした一族のうち、今も残っているのは三木を含めて数人しかいない。
  「満州へ渡った人間は皆少し変わっている。新天地で一旗揚げようっていうのだから、本当のエリートじゃない。親の血を受け継いでいるから、僕ら子供の世代も変わってる。でも、音楽家、画家、漫画家として名を成した人も多いでしょ。満州育ちの人に会うとそう感じるんですよ」
 
終戦時の満州・ソ連侵攻で日本人の悲惨な状況が語られている。
2015・8・29 産経新聞 塩塚保
海底に眠る英霊に光を 市川の写真家がパラオで撮影 29日から写真展 千葉
「記事内容抜粋」
  ■「平和考えるきっかけに」
先の大戦で激戦地となった南洋・パラオ諸島で、市川市出身の写真家・田中正文さん(56)が「日本の写真家である自分の使命」として5年かけて海底に眠る日本軍艦船や戦闘機などを撮影した。
作品を集めた戦後70年写真展「戦争の傷痕(きずあと)から平和を見つめる」が29、30の両日、市川市文化会館展示室(同市大和田)で開催される。
中略
写真展は市民グループが企画し、パラオ諸島などで撮影した写真約80点を展示。
田中さんは「朽ち果てようとする艦船や機体を見つめ、戦争と平和を考えるきっかけになれば」と来場を呼びかけている。
午前9時から・29日は午後6時・30日は5時まで・入場無料・問い合わせは細田伸一さん(電)090・7227・2107
 
市民グループの正体は? 反戦を叫んでも意味がない。
写真展が平和を齎すのか? 写真は歴史の証言者である。
日本人は大日本帝国が何故、
大東亜戦争を戦ったのか?を知る切欠にして欲しいものである。
2015・8・27 産経ニュース 北京=矢板明夫
中国・新華社、天皇陛下に謝罪を要求 「昭和天皇が戦争指揮」
「記事内容抜粋」
26日付の中国紙、光明日報は「昭和天皇には中国への侵略戦争の主な責任があり、その後継者である天皇陛下は先の大戦について謝罪するべきだ」と主張する記事を掲載した。
記事は国営新華社通信が配信した。
中国はこれまで安倍晋三首相ら日本の政治家に対し、歴史問題について反省や謝罪を求めることはあったが、天皇陛下に対し直接、謝罪を求めることは異例だ。
記事は、「昭和天皇は中国への侵略戦争と太平洋戦争を発動し、指揮した」と強調した上で、「昭和天皇は亡くなるまで被害国とその国民に謝罪を表明したことがなかった。
その皇位継承者は、謝罪で雪解けを、悔いることで信頼を手に入れなければならない」と主張している。
8月14日の安倍晋三首相の談話内容に不満をもった共産党指導部が、陛下の戦争責任を間接的に追及する方向に調整した可能性もある。
陛下は1992年に中国を初訪問した際、「わが国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります」と、お言葉を述べられた。
 
シナ人も恩知らず、シナ人と朝鮮人は同一種族、これではっきりしただろう。
もう容赦する必要は無い。
日本はシナの史実を全て公表すべきである。
世界平和の為にシナ共産党を潰す必要がある。
大東亜戦争は侵略戦争では無い
2015・8・25 ユーチューブ 重要・必見
【2015年8月25日生放送ノーカット版】馬渕睦夫『外交虎の穴 日本をどう活かすか?~国家戦略としての外交~』
「コメント」
2015年8月25日に収録・ニコニコ動画で生放送配信をした、
馬渕睦夫『外交虎の穴 日本をどう活かすか?~国家戦略としての外交~』
ノーカット版を公開致します。
テーマは「安倍総理の七十年談話に思う」
 
大日本帝国がアメリカ戦に突き進んだ理由が22分30秒過ぎに語られている。(大日本帝国は蒋介石との講和を望んでいたが、断念した理由が語られている) 
2015・8・23 ZAKZAKby夕刊フジ (1/2ページ)
英雄像が伝える日本とインドネシアの絆 「日本は侵略をしていない」 石井孝明氏
「記事内容抜粋」
東京・市ケ谷の防衛省構内に、インドネシア独立戦争の英雄で、初代軍司令官であるスディルマン将軍(1916~50)の像が設置されている。
同国の独立記念日である17日、日本人有志によって献花式が行われ、ユスロン・イザ・マヘンドラ駐日インドネシア大使らも出席した。
ジャーナリストの石井孝明氏が、両国をつなぐ絆についてリポートした。
     ◇
  「みなさんが、わが国の英雄を称えていただいたことは、本当にうれしい。両国には深い絆があります」。
ユスロン大使は、流暢(りゅうちょう)な日本語でこうあいさつした。
同大使は、筑波大学に留学し、国際政治経済学の博士号を習得した経歴を持つ。
中略
加瀬氏は「アジア諸国と日本の関係、特にインドネシアとの関係は決して侵略ではなかった。
両国の絆を確認し、歴史の正確な事実を示すことは、東京裁判の欺瞞(ぎまん)を示す意味がある」と続けた。
独立への貢献と戦後の経済協力から、インドネシアには親日的な人々が大半だ。
「日本は悪い」と決めつけるメディアや有識者の偏見もあり、両国の絆は戦後70年にわたって黙殺されてきた。
市ケ谷台に立つスディルマン将軍の像は、日本が戦った戦争の知られざる真実を伝えている。
 
アメリカとイギリスの欧米列強は、己等より下等と考えていた大日本帝国がアジアの有色人種ながらも、己等より数段上の崇高な民族と知り脅威を抱いた結果、蒋介石を利用し大東亜戦争へ引きずり込んだのである。
この事実は既に立証されている。
日本と手を携え歩みたいと考えて国は多い。
日本人よ、史実を勉強し、日本人としのて誇りを持て!
日本人
2015・8・22 ユーチューブ チャンネル桜 日本男児・日本人必見 
1/3【創立12年目SP】チャンネル桜の大東亜戦士たち-田形竹尾編[桜H27/8/22]
2/3【創立12年目SP】チャンネル桜の大東亜戦士たち-小野田寛郎編[桜H27/8/22]
3/3【創立12年目SP】チャンネル桜の大東亜戦士たち-名越二荒之助編[桜H27/8/22]
「コメント」
特攻隊教官として教え子達を南の空へ送り出した自身の宿命から逃げることなく、偏向に満ちた戦後日本と対峙し続けた、チャンネル桜設立の精神的支柱でもある田形竹尾氏。
そして、30年振りに帰国した祖国の惨状に一度は絶望しながらも、日本再起のために力を尽くした小野田寛郎氏と、シベリア抑留の過酷な経験を経てもなお、アジア周辺各国との連携を大らかで温かい視点から語り続けた名越二荒之助氏。
本来の日本の在り方を胸に抱きながら、戦後もそれぞれの現場で戦い続けた偉大な先達の足跡を振り返ります。
出演:水島総、髙清水有子
2015・8・22 ZAKZAKby夕刊フジ (1/2ページ) 軍事ジャーナリスト・井上和彦
【戦後70年 沖縄戦の真実】軍民合わせて20万人が戦禍に倒れた 先人の尊い犠牲を断じて貶めてはならない
「記事内容抜粋」
     ★(5)
沖縄特攻の中で、陸軍空挺(くうてい)部隊による「義烈空挺隊」も忘れてはならない。
同隊は、11、12人の空挺隊員を乗せた97式重爆撃機を敵占領下の飛行場に強行着陸させ、飛び出した空挺隊員が地上にある敵航空機や地上施設を強襲する部隊である。
奥山道郎大尉率いる120人の義烈空挺隊員は、熊本市の健軍飛行場に集結した。
昭和20(1945)年5月24日夕、それぞれの郷里に向って遥拝した後、12機の爆撃機に分乗して、米軍占領下の沖縄・北飛行場と中飛行場を目指して大地を蹴った。
厳しい戦局を打開し、沖縄を守るためだった。
中略
軍民合わせて20万人もの戦没者を出した沖縄戦。
それは凄惨を極めた、日本の悲劇である。
二度と沖縄をはじめとする日本に戦火が及んではならない。
あの悲劇を繰り返してはならない。
同時に、後世に生きるわれわれは、現在の価値観では理解できなくても、先人の尊い犠牲を断じて貶めてはならない。
 
沖縄県民にも大きな犠牲を強いたが、日本人は皆、懸命にアメリカ軍に逃げずに立ち向かった。
これも日本人の一つの誇りだが、沖縄県人は
愚かで嘘つき左翼に決して惑わされてはならない。
2015・8・22 産経WEST 
薄れゆく戦争の“印”忘れないで 爆撃機「銀河」配備された島根・出雲市の海軍航空基地 
「記事内容抜粋」
太平洋戦争末期の昭和20年春、島根県出雲市斐川町に建設された海軍航空基地があった-。
戦後70年を迎え、地域に残る戦争の“印”が薄れゆくなか、改めて歴史的事実を学ぼうと同町で講演会が開かれ、約150人の参加者はそれぞれの「戦争」への思いを胸に刻んだ。
中略
爆撃機が搭載する魚雷や爆弾などは、学童が疎開していた寺近くに保管されていたことにも触れ、「いかに戦争末期が混乱していたかの証」とした。
池橋さんは「まだまだ未解明なことは多く、研究の余地がある。
若い世代にも関心を持ってもらいたい」と話した。
 
大東亜戦争は何処の国も成し得なかった人類への最大の貢献でる。
日本人は誇りを持って欲しい。
アメリカは今でも
日本人の崇高さに恐れを抱いているのである。
2015・8・22 産経WEST (1/7ページ) 村上智博 【戦後70年】
今甦る芙蓉部隊(上) 月明かりをも拒否し、暗闇での出撃を繰り返した忍者部隊「戦友の命を背負っていく」
「記事内容抜粋」
  もはや夜間攻撃しか勝ち目はない-。
自爆を前提とした特攻を避け、艦上爆撃機・彗星(すいせい)で最後の最後まで、米軍に立ちはだかった旧海軍の夜襲専門「芙蓉(ふよう)部隊」の獅子奮迅ぶりが、元搭乗員の証言で判明した。
月明かりをも拒否し、暗闇での出撃を繰り返した忍者部隊は何を目指したのか。
  米軍のジャケット  歯にきぬ着せず  暗闇で目を凝らせ!  消えたわだかまり
中略
「おれはそのとき沖縄にいたんだ」という米兵に会った。
話をするうちに、自然と打ち解けた。
P51の若いパイロットと目があったときから抱いていた、米軍に対するわだかまりが消えていくのが分かった。
 
反日日本人よ、日本を守ろうとアメリカと戦つた大日本帝国軍人の思いが分かるか? 反日日本人は何に執着しているのか? もやもやしたわだかまりを捨て、日本の良さを分かろうと努力しろ! 
2015・8・22 産経WEST (1/2ページ) 【戦後70年】
「小野田さんはこっちの動きすべて把握していた」 ルバング島で捜索、岩瀬匠さん
「記事内容抜粋」
  「二度とできないような特別な経験だった」
元陸軍少尉、小野田寛郎(ひろお)さんのルバング島捜索隊に参加した和歌山県有田川町の岩瀬匠さん(81)は、昭和48年の捜索をこう振り返った。
小野田さんの出身地でもある同県海南市の職員として同年2月から2カ月間、「第三次小野田少尉救出隊」として活動した。
同市の宇賀部神社には、捜索の目印や出来事を記録した岩瀬さんの「ルバング雑記」の写しが千人針とともに展示されている。
中略
  〈いつかは彼の心に通じ 救出されるであろうことを期待する>
小野田さんが帰国したのは、翌年3月。
「救出隊は人が多すぎたんじゃないか。一人で探しに来たら会えると確信していた」と岩瀬さん。「出てきはることはわかっていた。本当はもう一度、今度は一人で行かせてほしいと言いたかったが、よう言わなんだ」
 
小野田さんがこの世界に戻る切欠(胸の内)を全て吐露したのだろうか? 最後はブラジルに移住した事を考えれば、心の底に吐露していない何かがあったと思うのだが・・・
2015・8・20 ZAKZAKby夕刊フジ (1/2ページ) 井上和彦
【戦後70年 沖縄戦の真実】米軍も震え上がった日本軍の強靭さ 16日間の攻防戦
「記事内容抜粋」
日本軍は「沖縄を守ろう」と、圧倒的物量を誇る米軍の前に敢然と立ちはだかった。
日本軍は約6万4000人もの尊い命を失ったが、4月8日から16日間の攻防戦で、米軍の戦死傷者は、予想をはるかに超える約2万4000人に至ったのである。
嘉数高地に投入された部隊には京都府や福井県の兵士が多かったという。
米軍はこの大損害にがくぜんとし、日本軍守備隊の強靭さに震え上がったのである。
中略
日本軍は「沖縄を守ろう」と、圧倒的物量を誇る米軍の前に敢然と立ちはだかった。
日本軍は約6万4000人もの尊い命を失ったが、4月8日から16日間の攻防戦で、米軍の戦死傷者は、予想をはるかに超える約2万4000人に至ったのである。
嘉数高地に投入された部隊には京都府や福井県の兵士が多かったという。
米軍はこの大損害にがくぜんとし、日本軍守備隊の強靭さに震え上がったのである。
 
沖縄県民よ、祖国への愛を思い出せ!
2015・8・20 ZAKZAKby夕刊フジ (12ページ) 井上和彦
【戦後70年 沖縄戦の真実】米軍への憎しみ根付かせた虐殺 指揮官殺された報復で民間人に銃口

「記事内容抜粋」
日本軍が「沖縄を守るため」に勇戦した場所は、県内各地にある。
そして、それらを伝える遺品や資料は県内外で保管されている。
  「天久台(あめくだい)の攻防戦」も忘れてはならない。
昭和20(1945)年5月12日、沖縄本島最西部を南下する米海兵隊第6師団は、首里城から約2キロ離れた那覇北の天久台で、日本軍の独立混成第44旅団と激突した。
日本軍は劣勢だったが、米軍の猛攻にひるむことなく、1週間もその進撃を阻止した。
中略
有名な 「ひめゆり部隊」 の女学生らと同様、白梅学徒看護隊も、献身的に負傷兵の看護にあたり、最期は壕内で尊い命を絶った。
現在の価値観では理解できないかもしれない。
ただ、日本軍将兵も、沖縄の女学生も「沖縄を守ろう」「日本を守ろう」と一丸となって米軍に立ち向かった-。
これが沖縄戦の実相である。
 
アメリカ軍の行く先々で戦争犯罪が行われている。
必ず、洗いざらいアメリカの戦争犯罪を記したい。
2015・8・20 朝日新聞デジタル 
(もう一つの祖国 戦後70年)タイ編:2 国籍偽り生きた脱走兵
「記事内容抜粋」
タイ中部ラチャブリ県のコクモーパッタナー村でダムおじさんと呼ばれていた自称中国人の男性は、日本軍の脱走兵とみられる。
敗戦に前後して、東南アジア地域に駐留していた日本兵の一部は部隊を離脱して逃げた。
捕まることを恐れ、日本人ではないと偽って身を隠すようにして生きた人も少なくない。
タイでは旧日本兵に懸賞金がかけられていた時期もある。
バンコク在住のカメラマン、瀬戸正夫さん(84)は、日本人として戦前のタイに生まれた。
だが、日本の戸籍に入れられていなかったため、タイ人として戦後を生きた。
瀬戸さんは戦中のタイと日本について調べるなかで、残留日本兵とみられる人物に何人も会った。
 
これは朝日新聞の捏造記事なのか? 何か仕掛けているのか? またまた日本人を貶めたいのか? もし事実であったにしろ既に戦後70年、彼等は死ぬのが怖くて脱走したのだろう。
中にはこう言う兵隊もいるさ、武士の情、そっとしておいてやれよ! 愚か者。
2015・8・19 産経WEST (1/3ページ) 村上智博
特攻兵器「桜花」の秘密訓練基地の映像を発見…専門家は「衝撃映像だ」 京都、滋賀をまたぐ比叡山中 
「記事内容抜粋」
終戦間際、旧海軍が開発を進めていた航空機型特攻兵器「桜花」の秘密訓練基地を撮影した映像が残されていることが18日、明らかになった。
さきの大戦の映像や文献を収集している大分県宇佐市の市民団体「豊の国宇佐市塾」(塾頭、平田崇英氏)が、米国立公文書館で見つけた。
地上発射型桜花四三乙型の出撃基地に関する映像は珍しく、専門家は「衝撃的だ」と一様に驚いている。
  ■専門家は「衝撃だ」
軍事評論家の兵頭二十八氏の話
「旧日本軍は、ドイツ軍が開発したミサイル兵器『V1』を、コピーしようと、米軍と開発競争を繰り広げた。
このミサイル開発は頓挫したが、この過程で、旧日本軍が開発したのが桜花だった。
戦況が悪化し、本土決戦を目前に、旧海軍は全国各地に基地を作ろうと急いだが、終戦までに本格的に作ったのは比叡山などごくわずかだった。
それだけに映像が残っていたのは衝撃的で、希少価値がある。
桜花は地上から敵艦に気付かれず攻撃する点で、戦後、陸上自衛隊が開発した地対艦誘導弾にも通じる戦術思想が現れている。
 
軍はアメリカに負けまいと必死に努力していた形跡なのだろう。
負け戦の軍の姿に外交で常に敗北、岸田や外務官僚の姿がダブるのだが・・・反日官僚のせいだけではあるまい。
2015・8・19 産経新聞  聞き手 川峯千尋
【戦後70年 語り、つなぐ】北本市・増田タツ子さん
「記事内容抜粋」
  ■数十キロの差「戦争って不公平」
北本市東間の増田タツ子さんは昭和7年、東京都北区生まれ。
5人きょうだいの三女で、女学校の入学試験のために疎開先から戻った矢先の昭和20年3月10日、12歳の時に東京大空襲を体験した。
終戦は母親の親類がいた吉見町で迎えた。
     ◇
  --昭和16年の開戦後、町はどんな様子でしたか
  --空襲がひどくなってきたのはいつごろですか
  --東京大空襲は
  --空襲後の光景は
  --空襲後は
  --終戦の日はどこで
 
アメリカの戦争犯罪である。
日本人はアメリカがこれ以上嘘を続けるのであれば、大東亜戦争のアメリカの戦争犯罪を問おうよ!
2015・8・18 ZAKZAKby夕刊フジ (1/2ページ) 井上和彦  重要記事  
【戦後70年 沖縄戦の真実】「沖縄が捨て石となった」は不適切 県民を救わんがために散った命がある
「記事内容抜粋」
海軍沖縄方面根拠地隊司令官の大田実少将(戦死後、中将に特進)は昭和20(1945)年6月6日、沖縄戦における沖縄県民の献身的な協力と、筆舌に尽くしがたい苦労を報告し、「後世県民ニ対シ特別ノ御高配賜ランコトヲ」との一文を、海軍次官当ての電文の最後に添えた。
1週間後の13日、大田少将は幕僚らとともに、豊見城岳陵に構築された海軍司令部壕内で自決を遂げたのである。
享年54だった。
中略
旧海軍司令部壕内かある慰霊地区には、「仁愛之碑」なるものが建立されている。これは、冒頭の大田少将の全電文を刻んだ石碑だ。
いずれにせよ、この電文を「仁愛」として捉える感情は極めて正常であり、戦後、沖縄に蔓延する日本軍への一方的な憎悪とは一線を画している。
もう一言付け加えておけば、極めて偏狭で歪な言論空間に支配されながらも、この旧海軍司令部壕では、旭日旗がへんぽんと翻っていた。
沖縄の中にぽっかり空いた良識ある空間のように思えてならない。
 
沖縄は沖縄左翼が汚した過去があるが、今この過去の嘘が暴かれつつある。
2015・8・18 産経新聞 新山隆朝
日本の空を守った戦闘機「紫電改」 物作りの素晴らしさ伝えたい
「記事内容抜粋」
戦後70年を迎え、戦争体験者や戦没者の遺族の多くが次々と鬼籍に入っている。
戦争体験の風化が危惧されているなか、愛媛県内の戦争遺構や資料、遺品を展示する施設の現状や取り組みを追った。
  ■70年ぶりに雄姿と再開  ■「伝える」ための出前授業も
県遺族会の池見健弌事務局長(75)は「元気な時は遺品(形見)を手放せないが、70年を区切りとして最後に後世に残したいとの思いがある」と寄託する遺族の心情を語る。
池田丈志禰宜は「50年後や百年後、戦争や先祖を知らない人に、祖先が国を守るために戦ったことを学ぶ場所にしたい」と力を込めた。
 
自虐史観を持ち込まず史実を伝えて欲しい。
最重要動画・必見
2015・8・18 ユーチューブ 最重要動画・必見 
【岡山】平成27年終戦の日 記念講演『アメリカにおける東京裁判史観見直し』
「コメント」
日 時 : 平成27年8月15日(土)     12:15〜13:45
場 所 : 護國神社いさお会館
演 題 :『アメリカにおける東京裁判史観見直し』
講 師 : 江崎道朗(えざき みちお) 先生
 
※アメリカの実態が語られている。 
2015・8・18 時事通信
鎌田陸軍中将の日記発見=連合軍との交渉経過など記す-占領期研究の重要史料【戦後70年】
「記事内容抜粋」
終戦直後に連合軍との交渉に当たる連絡委員会の副委員長を務めた鎌田銓一陸軍中将が1942年から57年までの日記を記した手帳5冊が、長男勇氏(87)の東京都新宿区の自宅から発見された。
45年8月に厚木飛行場で米軍の先遣隊を出迎え、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥の到着後は横浜で交渉に当たった様子が記されており、占領期の日本側の状況などを知る重要な史料といえそうだ。
中略
マッカーサーが厚木に着いた30日は 「15・00頃マッカーサー到着(中略)有末中将ト共ニ横浜ニ移動シ連絡機関ヲ構成ス」 と記述。
以降は横浜でアイケルバーガー中将率いる米第8軍との連絡担当となり、日米の関係者と頻繁に連絡を取っていた様子が記述されている。
 
日本の歴史研究者はGHQの占領の実態を明らかにして欲しいものである。
敗戦利得者が生まれた経緯も解明できるハズである。
2015・8・17 ユーチューブ チャンネル桜 
【安全保障講座】パプアニューギニア・ラバウル~偉大なる先人達が残した親日国[桜H27/8/17]
 「コメント」
大東亜戦争時に日本軍の一大拠点が築かれ、同地に本部が置かれたラバウル航空隊の活躍でも知られる、パプアニューギニアのラバウルを井上和彦が訪れ、当時と変わりない象徴的な花吹山を望みながら防空壕や海軍司令部跡などをめぐる中で目にした「遺産」とはどのようなものだったのか。
交流を通じて現地の人々が示してくれた日本への親愛の情が本物であること、そして、それが紛れもなく、かつて日本兵達と信頼関係を築いた世代からけ継がれてきたものであることを物語る、数々の“証拠”を写真や映像でご紹介しなが、お伝えします。
 
涙無くして観れない動画、これぞ親日国である。
2015・8・16 産経WEST (1/3ページ) 池田祥子
諜報、情報収集力の重要性痛感 元陸軍少尉「敵を知らずに戦争突入した」 近衛元首相長男「教訓」次世代に託す
「記事内容抜粋」
終戦から70年を迎えた15日、東京・靖国神社は深い祈りに包まれた。
「負けるべくして負けた戦で、多くの有為な人材を失った」。陸軍少尉として本土決戦に備えているとき、終戦を迎えた和田泰一(やすいち)さん(90)=東京都品川区=は、悔しさを胸に戦後を生きてきた。
静かに手を合わせながら「今日の繁栄があるのは英霊のおかげ」とかみしめ、次世代の人たちに祖国の未来を託した。
  日露戦争当時の武器  元首相長男が語った「教訓」  瀬島龍三氏との出会い  
中略
やがて日本は経済大国として再興。そして戦後70年を迎えた。
国内外で多くの問題を抱える日本の現状を憂い、行く末を案じる。
  「国際問題は戦争を回避して外交交渉で解決する時代に入った。国際情勢を見据えながら大局的に物事を判断すべきだ」と語る一方、「もちろん国の備えが無防備でいいわけではない。集団的自衛権の問題でも、『戦争になる』とすぐに非難の声が上がるが、冷静に事実を見極めることが必要だ」
多くの人が祈りをささげた靖国。和田さんは祖国の未来を担う次世代の人たちへの伝言をこう語った。
  「個人主義が優先されているが、公のために生きることの大切さを失わないでほしい」
 
日本人は人類の宿命を背負った神の国の民、人類に大東亜戦争の無い歴史は無く、日本は今後も大日本帝国が背負った宿命を背負い続けなけらばならないが、多くの国々を味方に付ける事である。
2015・8・16 産経ニュース 秋山紀浩 
【戦後70年】有田・豊龍山無縁寺、引き取り手ない3736体守り続け 和歌山
「記事内容抜粋」
  ■「英霊たちの礎あって今がある」
太平洋戦争の戦場で散り、祖国に戻っても引き取り手がないままとなっていた英霊3736人の遺骨が、有田市宮崎町の山上にある豊龍山無縁寺で、長年にわたって手厚く供養されている。
昭和25年、放置された遺骨に心を痛めた地元の男性が引き取ったことが始まりで、60年以上たった今も、地域の人たちが供養塔を清掃するなど大切に守り続ける。
「英霊たちの礎があってこそ今がある」。
平和への祈念の思いは、年月を経ても変わることはない。
  「周囲に植わっているのは桜の木。戦場で散っていった英霊の思いを表現しようと植えられたと聞いています」
中略
桝井さんは「戦場で散っていった英霊たちがいたことを風化させてはならない。
将来にわたって供養していきたい」と話した。
 
心温まる話である。
シナ人よ、シナ事変以来、シナ人はシナ人民を自ら同胞を虐殺、大洪水まで引き起こし100万人を溺死させた。
知っているのか? 毛沢東は6,000~8,000万人以上の虐殺、、チベット、南モンゴル、天安門、今は新疆ウイグルと惨殺が続いているが、死者が成仏していると思っているのか? 日本人の爪の垢でも煎じて飲めよ!
2015・8・16 産経ニュース 
【戦後70年】「誇り持ち国の再建を」 宮城県護国神社で遺族ら300人が祈り
「記事内容抜粋」
終戦から70年を迎えた15日、東北各地では先の大戦の戦没者を悼む式典や催しが開かれた。
戦後70年の節目の「終戦の日」に、参列者は改めて戦没者の鎮魂を祈り、平和への誓いを新たにした。
中略
中村さんは「全国最年少の特攻隊の生き残り」などと自身の略歴が書かれた資料をもとに講演。
「日本人は自信を取り戻し、誇りを持って国を再建していこう。それが英霊たちに報い、恩返しし、慰めることになる」と締めくくった。
 
日本人よ、このままでは英霊の意思に背くぞ!
2015・8・16 産経ニュース 編集委員 岡部伸
大戦末期 軽井沢から米英に電報 「国体護持」スイス仲介か
「記事内容抜粋」
第二次世界大戦末期に長野県軽井沢町の「深山荘」に疎開していたスイスのカミーユ・ゴルジェ公使をはじめ、スイスの外交当局がフランス語で「イミュニテ カルイザワ」(軽井沢を爆撃しないでほしい)と記載した電報を、本国の外務省や米英のスイス公館に約2カ月間で19通送っていたことが15日、軽井沢町と筑波大学の調査で明らかになった。
「イミュニテ カルイザワ」が「国体護持(天皇制維持)」の符号であるとの見方も浮上、スイスが仲介役となって米英の意向を探る和平交渉が行われた可能性もある。
中略
軽井沢町と筑波大学は22日午後2時から同町中央公民館大講堂で「深山荘の謎を解く」と題して公開シンポジウムを開催。
ゴルジェ日記を発掘したフライブルク大学のクロード・ハウザー教授らが講演する。
 ※当時の電文が大事に残されているのには大変驚いている。
国体護持、事実とすれば大変有難い事、スイスに感謝する。
2015・8・15 産経ニュース 溝上健良 【あの人の本】   重要記事
ソ連軍将校に乱暴されそうに…「軍国少女」だった澤地久枝氏の『帰還』
「記事内容抜粋」
ノンフィクション作家の澤地久枝さんは14歳のとき、旧満州・吉林で終戦を迎えた。
先の大戦中は「絵に描いたような軍国少女」だったと自ら認めている澤地さんの目に、日ソ中立条約を破って侵攻してきたソ連軍はどのように映ったのか、近著『14歳〈フォーティーン〉 満州開拓村からの帰還』(集英社新書)から探ってみたい。
  「予科練に入りたい」と願った  
中略
この事態について、澤地さんは作家、半藤一利氏の文章を引用して《敗北を予見したドイツ海軍元帥デーニッツは、降伏の四カ月前から、水上艦艇の全部を、東部ドイツからの難民と将兵を西へ移送するために投入した。
「ソ連軍の蹂躙(じゅうりん)から守るためである」と》と記す。
その前後を意訳すれば、ドイツは自国民保護に力を尽くしたが、日本は満州の日本人を見捨てたと主張したいようだ。
しかし、一方的に条約を破って終戦直前のどさくさに侵攻してきたのはソ連ではなかったか。
  残された女性たちの運命
中略
ともかくも1年間の難民生活の末、澤地さんは日本への帰国を果たした。
一方で中国の土となった日本人も多くいた。
また、帰国までにさらなる辛酸をなめた人も多かったことだろう。
この本には書かれていない、いや書けなかったであろうことが多々あるように思われる。
 
悲惨な状況が伝わって来る記事であるが、日本人が他の民族よりどれだけ素晴らしいかを実感させられた。
日本政府は、英霊を含め日本人の汚名を晴らし、民族の素晴らしさを後世に伝える必要がある。
2015・8・15 ZAKZAKby夕刊フジ (1/2ページ) ケント・ギルバート
【ニッポンの新常識】本土決戦を主張した阿南陸軍大臣 私は「腹芸説」を採る
「記事内容抜粋」
前略
同年7月26日に出されたポツダム宣言は、日本政府への「条件付き降伏」の要求だった。詳細は以前の連載で書いた。
ドイツと日本の「無条件降伏」にこだわり続けたのは、ルーズベルト大統領である。一方で日本は「国体護持」にこだわり続けた。
国体とは、天皇を中心とした日本古来の国家体制を意味する。
政府は降伏後の国体護持が保障されなければ「本土決戦やむなし」と考えていた。
新聞は「一億総玉砕」などと民衆をあおった。
ルーズベルト大統領は、母方の一族がアヘンを含む対中貿易で財をなした影響か、「親中憎日」だった。
開戦前の日米和平交渉と同様、戦争終結の際も、日本の希望を聞く気など一切なかった。
原爆実験は成功間近であり、「ダウンフォール作戦」という、毒ガス攻撃まで含む本土上陸殲滅作戦が計画されていた。
これが神風だろうか。
ルーズベルトは4月12日に脳卒中で急死。
後任にトルーマンが就任し、米国はやっと日本に「条件付き降伏」を提示できることになった。
中略
ポツダム宣言受諾に最後まで反対し、戦争継続、本土決戦を主張し続けた阿南惟幾(あなみ・これちか)陸軍大臣は8月15日早朝、切腹して果てた。
宣言受諾への抗議と捉える人もいるが、私は、彼の戦争継続の主張は、青年将校らの不満を抑える芝居だったという「腹芸説」を採る。
阿南大臣は死後、頑迷な軍国主義者とさげすまれる可能性を承知のうえで、祖国の未来のために芝居を続けた。
最後は壮絶な切腹を通じて、強硬派の戦闘意欲を鎮めさせ、動乱を防いだ。
これぞ日本人なり。
心から冥福を祈る。
 ※この説に賛同する。
己を犠牲にし国を生かす、これぞ日本人魂。
2015・8・14 産経WEST (1/4ページ) 注目  
8・15後、夫婦で特攻機に乗り込みソ連軍戦車へ…「軍紀違反」と闇に葬られた壮絶実話、今明らかに
「記事内容抜粋」
  ドラマ「妻と飛んだ特攻兵」 8月15日に戦争は終わっていなかった     「女が乗っているぞ!!」
  英霊の名誉回復  白旗掲げた日本人にソ連軍がした残虐行為 軍紀違反覚悟の特攻
  風化させてはならない記録  
中略
軍の命令に背き11機が飛び去った後、基地中が騒然とする中、谷藤夫婦が暮らした官舎の部屋から、徹夫が書き残した辞世の句が見つかっている。そこには、こうしたためられていた。
  「国敗れて山河なし 生きてかひなき生命なら 死して護国の鬼たらむ」
戦後70年。谷藤夫婦ら己の幸福を捨てた無数の命の犠牲のうえに、今の日本の平和が築かれていることを私たちは忘れてはならない。
 
相思相愛、羨ましい限りである。
日本に現在、相思相愛の夫婦が何組いるだろうか? 想像するよりずっと少ないハズである。
当時では、お国の為に役立つ事が二人にとって最も幸せだったのだろう。
互いに本当に愛し合っていれば不可能では無いと思う。
2015・8・14 現代ビジネス (1/2ページ)
子どもたちの太平洋戦争~そして彼らは手榴弾を握った 【戦後70年特別企画】戦時の『少年倶楽部』をよむ
「記事内容抜粋」
  <沖縄の戦線では、諸君と同じ年ごろの少年が、手に手にこの手榴弾をにぎって敵中に突撃した。われらも今から訓練をして、本土決戦にそなへよう>(1945年7月号より)
総力戦となった太平洋戦争、子どもたちはいかにして戦争に組み込まれていったのか。
それを知るための、貴重な資料がある。
  『少年倶楽部』。
1914年に創刊され(発行元は大日本雄弁会、現・講談社)、田河水泡の『のらくろ』、島田啓三の『冒険ダン吉』などの人気連載を持ち、吉川英治や大佛次郎らが執筆、最盛期には発行部数70万部を誇った少年雑誌だ(62年に廃刊)。
その影響力の大きさゆえに、戦時中は軍部が誌面づくりに介入し、軍事色の強い雑誌となった。
戦時下の『少年倶楽部』を開き、その時々の特集・連載・企画を見ることで、少年たちの戦争を追ってみたい。
  太平洋戦争開戦。日本の「快進撃」が少年の心を鼓舞した  東條英樹、現る  防戦時代。自分の身は、自分の身で守る
  子どもたちよ、肉弾せよ。~特攻の時代、そして終戦へ
中略
あの戦争は、ついに子どもたちを「ひとつの兵器」に変えてしまったのだ。
  「大東亜の指導者」となるはずの少年たちは、なぜ「本土防衛の兵器」になってしまったのか。
その説明はどこにもない。いつの間にか、そうなっていた。
そして、いつの間にか、少年たちの戦争は終わっていたー―。
 
現代ビジネスは、自虐史観丸出し、何故、大東亜戦争と記さないのか? この記事アメリカに見せたいのか? 愚か者。
戦争抑止の為、日本は集団的自衛権の法整備をしているのである。
2015・8・13 産経ニュース (1/6ページ) 【戦後70年~昭和20年夏(7)】 注目 
樺太に残された日本人女性 ソ連兵の恐怖に震え…過酷な日々、帰国信じ半世紀
「記事内容抜粋」
  「戦前の樺太は活気にあふれててね。自然も豊かで人情もあって。本当にいいところだった…」
南樺太で生まれ育った近藤孝子(84)=東京都三鷹市在住=はこう言って目を細めた。
明治38年、日露戦争後のポーツマス条約で北緯50度以南の南樺太は日本領となった。
多数の日本人が入植し、林業や漁業、製紙業などで栄え、昭和16年12月の国勢調査では40万6557人が暮らしていた。
米国と戦争が始まっても平穏だった。
学校では日本人、ロシア人、朝鮮人が一緒に学んだ。
近藤は南樺太でずっと幸せに暮らしていけると信じて疑わなかった。
ところが、昭和20年8月9日、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州に一斉侵攻したことで近藤らの人生は大きく変わった。
樺太への侵攻は11日に始まり、ソ連国境近くの古屯(ことん)付近で日本軍と戦闘になった。
北部の住民が南部に避難してきたが、近藤らが暮らす落合町など南部は空襲もなく、今ひとつ戦争の実感はなかった。
中略
サハリンに名を変えた南樺太は無法地帯となった。
ソ連兵は傍若無人だった。短機関銃を構えて民家に押し入っては時計や万年筆、鏡など貴重品を手当たり次第に略奪したが、黙って見ているしかなかった。
強姦(ごうかん)も日常茶飯事だった。近藤ら若い女性は髪を短く切り、作業服姿で男のふりをして日中を過ごし、押し入れか屋根裏で就寝した。
ソ連兵が家に押し入ると押し入れで息を潜めた。
中略
ソ連軍の上陸は四島の島民を恐怖のどん底に突き落とした。
若い女性は変装して納屋に隠れたが、逃げ場を失い、幼子を抱えて海に身を投げた母親もいた。
ソ連は21年2月に四島を自国領に編入。
島民を強制退去させる決定をした。
島民は小型船で沖合に出た後、荷物用モッコ網に入れられてクレーンでつるしあげられ、大型貨物船の船倉に降ろされた。
完全にモノ扱いだった。
     × × × 
今年3月末の元島民は6774人、70年前の4割以下に減った。
四島の入植ロシア人は計1万7千人超で終戦時の日本人数に迫る。
元島民の平均年齢は79・8歳。残された時間はあまりない。
 
この状況を考えれば、吉田清治の言う朝鮮人強制連行などあろうはずが無い。
日本の周辺国は泥棒と人殺、強姦魔、嘘つきばかりである。
2015・8・13 産経ニュース (1/2ページ) 【中江有里の直球&曲球】
ひめゆり学徒隊がたどった足跡 戦争体験者と知らない世代が邂逅

「記事内容抜粋」
先月、沖縄で沖縄戦の戦跡を巡る催しが開かれた。
ひめゆり学徒隊がたどった3カ月あまりの足跡を1日かけて巡る。
この日の集合場所はゆいレール安里駅近くのスーパーマーケットの駐車場。
ここはかつてひめゆりたちの学校があった敷地である。
当日は台風9号の影響ですっきりとしない天候だったが、沖縄の強い日差しが遮られた分、体は少し楽だ。
県内外からの六十数人の参加者と新聞やテレビの記者で大所帯の移動となった。
私は取材とは関係のない一般参加だったので、正直取材陣の多さと、参加者の見学を考慮しない一部の取材陣には閉口した。こうした催しをメディアで伝えるのは大切なことだが、もう少しつつましくあってほしかった。
中略
戦後70年という節目に参加した戦跡巡りは、戦争体験者と知らない世代が邂逅(かいこう)する貴重な機会となった。
 
正直に記そう。
沖縄には何度か訪れた事があるが、20数年前が初めてである。
その時、ひめゆりの塔を始め、戦跡を巡ったが、厳かさが無く、作為的で異様な人の息吹に不快を覚えたのだが・・・靖国神社の清々しさとは全く違う。
不快感を覚えるのは私だけでは無かろう。
その後、沖縄の戦跡巡りを止めた。
2015・8・13 産経WEST 新山隆朝 【戦後70年~物言わぬ証言者】 
娘への最後の便り 残された家族も悲惨
「記事全内容」
  「オトウサンハ センソウニ アツイトコロヘイキマス」
戦地へ向かう父が7歳の娘に宛てた最後の便りは、子供にも読めるようにカタカナで書かれていた。
警察官だった父の山崎成(あき)計(かず)さん=当時(36)=は昭和19年8月に、東部ニューギニア・ウエワク方面で戦死した。激戦地のため、遺骨は戻っていない。
ニューギニア戦線では、熱帯のジャングルに約20万人の将兵が送られた。戦闘のほか、餓死やマラリアなど凄(せい)惨(さん)を極め、生還者はわずか約2万人とされる。
当時7歳だった長女の山崎民恵さん(78)=愛媛県西予市三瓶町=は、肩車をしてもらい、父が歌いながら踊っていたことを今も思いだす。踊りは故郷で今も引き継がれている「五ッ鹿踊り」だった。
父は同県八幡浜市出身。
台湾で巡査となり、昭和18年7月に召集され、基(キー)隆(ルン)港から戦地へ向かった。
手紙には「戦地に連れて行くことはできない」と、持っていた民恵さんの写真も同封してあった。
民恵さんは「父は死を覚悟していたのでは」と話す。
残された家族3人は米軍の魚雷攻撃に怯えながら、命からがら母の実家がある西予市三瓶町へ引き揚げた。
母は家計を洋裁の内職で賄った。
民恵さんは「女手ひとつで姉妹を大学まで育て上げてくれた」と感謝しつつ、「戦争に行った人も、残された家族も悲惨。
父を失ったことで戦争未亡人のレッテルを貼られ、差別も受けた。二度と戦争をおこしてはならない」と訴える。
松山市の護国神社は、遺族会と協議し、戦争の遺品を展示する計画を進めている。
民恵さんは「遺族のメッセージが受け継がれるように」との思いから、同館へ遺品を託すつもりだ。
 
この「民恵」さんの名、同じ名の女性がいた。
戦前、戦中、戦後に親から名付けられた様だが、今は殆ど名付けられることが無いのだろう。
2015・8・13 産経ニュース (1/3ページ) 豊吉広英  【戦後70年 遠きインパール(中)】
「白骨街道」助けられなかった戦友 「指の1本しか持って帰られなかった」
「記事内容抜粋」
約10万の将兵が参加し、3万人が命を落とすという極めて高い死亡率を示したインパール作戦。
日本軍の退却に使われた道には、行き倒れた兵士が連なっていた。南方の気候は遺体をすぐに腐敗させ、まもなく白骨化させていく。
日本兵の骨で埋め尽くされた道は、いつしか「白骨街道」と言われるようになった。
  「命令するしかない。仕方がない」上官も苦悩  
  父が語った過去の日々「自分には、命をかけてやらなければならないことがある」
  息子に伝えたかった父の思い
中略
茂さんの死後、修一さんはその遺志を継いだ。今年も4月、41回目の巡礼団を組織し、かつて父が戦った地に立った。
「あの夜、自分には、命をかけてやらなければならないことがある、ということを息子に伝えたかったんだろう」。
今はそう思っている。
 
日本の指導者の靖国神社参拝は、「シナと韓国が反対するから」と、靖国神社に眠る英霊達を決して捨て駒に使っては日本人の名が廃る。
シナ人、韓国人には到底理解出来まい。
靖国神社に眠る英霊達は大日本帝国を信じ、未来を信じて散った日本国民である。
思想信条を持ち込まず、何事にも左右されず、日本人の心を届けよ!
2015・8・12 現代ビジネス 一ノ瀬俊也
米軍はいかにして日本兵を投降させたか~その周到すぎる心理作戦 【特別公開】一ノ瀬俊也=著『日本軍と日本兵』2
「記事内容抜粋」
太平洋戦争中、米軍は最新の軍事情報を得るために日本兵を捕虜にしたかった。
しかし、降伏を禁じられ、捕虜になるのは「恥辱」とされていた日本兵はなかなか投降しない。
そこで米軍が展開した周到な情報戦とは? 一ノ瀬俊也『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』より「第二章 日本兵の精神」を特別公開します(全3回。第1回「日本兵の戦争観」はこちら)。
     日本兵と投降
  日本兵捕虜を獲得せよ  日本軍の士気─亀裂拡がる  心理戦の手法  捕虜は米兵の命を救う  
  日本軍の尋問は腕力  金銭的待遇
 
今頃各記事なのか? 記事の狙いは? アメリカの戦争犯罪を覆い隠す目的だろうが、銭に転んだのか? 
アメリカは捕虜を取らず、日本兵を抹殺しただけだろう。
アメリカとイギリスの種差別が大きな原因、両国は大日本帝国を滅ぼす目的で仕掛けた戦争が大東亜戦争である。、
2015・8・12 withnews
宣戦布告なかった真珠湾攻撃 日本のイメージ悪化、原爆投下にも
「記事内容抜粋」
戦争をする前に、相手国に攻撃を宣言する宣戦布告。
国際法上、重要な手続きと言われています。
黙って攻撃する方が勝つ確率は高くなりそうですが、わざわざ攻撃することを相手に伝える宣戦布告が大事だとされる理由はどこにあるのでしょうか?
  宣戦布告なかった真珠湾攻撃  アメリカ参戦のきっかけに  原爆投下にもつながった真珠湾攻撃 
中略
真珠湾攻撃自体は成功をおさめた日本ですが、その後は国際的に孤立し、原爆投下による敗戦という結果をむかえます。
戦争全体を見た場合、宣戦布告の持つ意味は大きかったと言えそうです。
 
多くの事実が明らかになっている今、この記事を書くのか? 愚か者、目的は? 確り史実を学び記事にしろよ! 
2015・8・11 IRONNA 重要 
捻じ曲げられたポツダム宣言
「記事内容抜粋」
日本に戦争終結を促したポツダム宣言は全13カ条から成る。
日本がこの宣言を受諾し、第二次世界大戦は終結した。しかし、その裏側には大国の駆け引きやトルーマン大統領の思惑も交錯する。
アメリカの戦争犯罪の側面も見え隠れするのだが……。
  前田守人の視線   原爆投下の口実づくりに利用された  「降伏文書」法的には「休戦協定」
  「軍隊の無条件降伏を宣言せよ」  「ポツダム宣言」現代語訳では  対日戦争「狂人1人に責任」
  「ご聖断の場」公開  君主の使命と困難
  日本はポツダム宣言で連合国軍に無条件降伏したと思いますか?
2015・8・11 無条件降伏をした 40  条件付きで降伏をした 175  どちらとも言えない 8
 
学校で無条件降伏と習ったが、雑記帳を編集する段階で無条件降伏で無かったと知った。
日本政府、政治家、官僚はGHQに協力し国民を嘘で騙し続けた結果、日本に多くの嘘が蔓延する事になったのである。
何事も最初が肝心である。
2015・8・11 産経ニュース (1/7ページ) 【戦後70年~昭和20年夏(6)】
なぜシベリア抑留者は口を閉ざしたのか ソ連の「赤化教育」の実態は…「やらねば自分がやられる」
「記事内容抜粋」
ソ連軍によりシベリア抑留され、帰還した日本人将兵は50万人を超えるが、その多くが抑留体験について口を閉ざした。寒さと飢え、重労働、仲間の死-。思いだしたくもないのは当然だが、もう一つ理由があった。日本の共産主義化をもくろむソ連の赤化教育だった。
  「軍隊時代、貴様はみんなに暴力をふるった!」
  極東・ハバロフスクのラーゲリ(収容所)で、1人の男が壇上の男を糾弾すると他も同調した。
  「同感だ!」「この男は反動だ」「つるせ!」-。
中略
  「シベリアでの出来事は何でも思い出せる。それほどつらかった。あの体験がその後の人生に影響したことは何もない。ただ、悪い思い出だけが残った…」
 
現在のシナを見れば、共産主義者がどれ程酷い仕打ちを日本人に実行したのか、誰でも理解出来る。
2015・8・11 現代ビジネス 一ノ瀬俊也
米軍から見た帝国陸軍末期の姿~本当に天皇や靖国のために戦っていたのか? 【特別公開】一ノ瀬俊也=著『日本軍と日本兵』1
「記事内容抜粋」
規律は良好」「準備された防御体制下では死ぬまで戦う」「射撃下手」「予想外の事態が起きるとパニックに」……あの戦争の最中、米軍は日本兵について詳細な報告書を残していた。
”敵”という他者の視点から、日本人には見えない問題をえぐった話題の書、一ノ瀬俊也『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』より「第二章 日本兵の精神」を特別公開します(全3回)。
     日本兵の戦争観
  対米戦争についてどう考えたか  名誉意識  捕虜との会話  日本兵の日記を読んでみた  空襲により落ちる士気
  規律の乱れ  
中略
「チクショー!」と絶叫する将校たちは真剣だったのか、上から言われて渋々やっていたのか。
部下はそれをどうみていたのか。
何とも戯画的な帝国陸軍末期の姿であった。
 
負け戦の場面を強調するのか? 負け戦となれば何処の国でも兵士は自暴自棄になるもの、誰が兵士を咎める権利があると言うのか? 自虐史観そのままではないのか? 未だプロパガンダを続けるつもり?
2015・8・11 現代ビジネス (1/7ページ) 井上 寿一
「事変不拡大」を模索した近衛文麿は、なぜ「日中戦争の泥沼化」を止められなかったのか 【特別公開】井上寿一=著『戦前昭和の社会』1
「記事内容抜粋」
国家と国民が一体となって戦争を遂行する。
そこには国家と国民を直接、結びつける多様なメディアの発達があった。
そして、メディアは近衛文麿というカリスマを作っていく。
  ラジオのカリスマ・近衛文麿  ラジオによる印象操作  危機のなかの近衛──盧溝橋事件
  「不便な土地ほど便利なラヂオ」──戦争とラジオ  ラジオによる国民の慰安  ジャズ音楽の容認  
   「平和」を求める近衛  戦争の長期化  ラジオ辞令  
中略
方向感覚を失ったのは国民だけでなく、近衛も同じだった。
9月の日独伊三国同盟と10月の大政翼賛会の成立にもかかわらず、近衛は日中戦争を解決するための国内・国際体制を確立することができなかった。
それでも大衆の支持は衰えることがなかった。
最後まで切り札でありつづけた近衛は、1941(昭和16)年7月18日に第三次となる組閣をする。
 
中途半端な記事にするな! 大東亜戦争を記事にするなら、済南事件から考えろよ! 盧溝橋事件迄にどれだけ多くの日本人がシナ人の手により猟奇的に虐殺された事か、知らないとは言わせない。
2015・8・10 毎日新聞 山本将克
<在外被爆者医療費>「全額支給」確定へ9月8日最高裁判決
「記事内容抜粋」
被爆者援護法の医療費支給規定が海外に住む被爆者に適用されるかが争われた訴訟の上告審で、最高裁第3小法廷(岡部喜代子裁判長)は判決期日を9月8日に指定した。
高裁の判断を見直す際に必要な弁論を開いておらず、在外被爆者の医療費の全額支給を認めた大阪高裁判決が確定する見通しとなった。
原告は、広島で被爆し韓国に帰国した被爆者や死亡した被爆者の遺族ら。
被爆者健康手帳の交付を受けたが、韓国での医療費の支給申請を大阪府に却下され、処分の取り消しなどを求めていた。
中略
厚生労働省によると被爆者健康手帳を持つ在外被爆者は3月末現在で約4300人。
広島、長崎両地裁でも同種の訴訟が起こされていたが、在外被爆者側の請求を棄却(いずれも控訴)しており、司法判断が分かれていた。
 
原告団は何故、アメリカに請求しないのか? 最高裁は何故、原爆被災者の補償を被災した日本政府にさせるのか? 一度位アメリカに罪を振っていいと思うのだが・・・
2015・8・10 朝日新聞デジタル 
大本営陸軍部の地下壕を公開 防衛相「歴史物語る場所」
「記事内容抜粋」
防衛省は10日、東京・市谷の庁舎敷地内に残る地下壕(ごう)を報道陣に公開した。
同省は、太平洋戦争中に大本営陸軍部や陸軍省が置かれていた場所にあり、空襲に備えた壕もあった。
中略
壕を見た中谷元・防衛相は「非常に歴史を物語る場所だ。老朽化が進んでいるが、戦争の記憶を風化させてはならない」と話した。
 
日本の歴史遺産であり、大事にしろよ!
2015・8・10 産経ニュース 桑原聡 重要 
(331)間奏V 利巧な奴は反省すればいい
「記事全内容」
「戦後70年」という言葉に覆い尽くされた酷(むご)いほど暑い夏である。毎年この時期になると、敬愛するふたりの言葉を思い出す。今年は特にそうだ。
  《この大戦争は一部の人達の無知と野心とから起ったか、それさえなければ、起らなかったか。どうも僕にはそんなお目出度(めでた)い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐ろしいものと考えている。僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか》
  《戦争に勝敗はあるが、正邪はない。戦勝国と敗戦国はあるが、その間に正義がわりこむ余地はない。古往今来勝者は敗者を存分にした。殺すか奴隷にした。敗けた国は臥薪嘗胆(がしんしょうたん)して今度は反対に勝つと、同じ復讐(ふくしゅう)を復讐した。こうして何千年来戦争はあった。これからもある》
大方の読者はお分かりだと思うが、前者は小林秀雄、後者は山本夏彦である。終戦の日、利巧ぶって反省するのもけっこうだが、私はふたりの言葉をじっとかみしめたいと思う。
20年前の戦後50年の夏、利巧な村山富市さんがたんと反省して首相談話を発表してから、10年ごとに時の首相がたんと反省した談話を発表することになってしまった。
いまさら言っても詮ないことだが、「黙秘権」を行使できなかったのかと思う。
種田山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」をもじって言えば、「何言っても何言っても針の山」なのだから。
これで打ち止めにしませんか。
 
大賛成! 安倍総理が真面な談話を出し終わりにしよう。
2015・8・10 産経ニュース 長内洋介、伊藤壽一郎、黒田悠希  【戦後70年 核物理学の陰影(下)】 重要
悲運の加速器、海底に沈む 「米国の誤謬、もはや絶望」
「記事内容抜粋」
  理研・仁科博士
終戦から3カ月が過ぎた昭和20年11月24日の朝。東京・駒込の理化学研究所に突然、2台のブルドーザーがやってきて、門や建物の塀を壊し始めた。
  「全てのデータを押収し、理研、大阪帝国大(現大阪大)、京都帝国大(現京都大)のサイクロトロンを破壊せよ」
米陸軍省が原子核の研究装置である円形加速器「サイクロトロン」を原爆製造用と誤認し、連合国軍総司令部(GHQ)に破壊命令を出したためだ。
サイクロトロンは電磁石で作った円形の軌道で電気を帯びた粒子を加速し、実験試料にぶつけて核分裂を起こしたり、放射性同位体を作ったりできる。
当時の核物理学の最先端装置だった。
理研には大小2台のサイクロトロンがあった。
小型は仁科芳雄博士が12年に世界で2番目、国内で初めて製作したものだ。
大型は当時の世界最大級で、重さは磁石だけで200トンもあり、6年かけて18年末に完成した。
仁科が日本陸軍から依頼された原爆開発の「ニ号研究」では、小型を使ってウラン濃縮の成否を確認し、大型の開発計画も盛り込まれたが、いずれも原爆を製造する装置ではなかった。
中略
  --原爆研究に関わった科学者の多くは戦後、核廃絶運動などに取り組んだ
  「原爆投下で起きた悲惨な状況から、強い衝撃を受けて意識が変わった。エネルギーの大きさは当然、分かっていただろうが、どんなことを引き起こすか考える余裕がなかったのかもしれない」
 
この実験は世界が今、実験をしている技術、大日本帝国は既に70年以上前に科学の最先端を歩んでいた事が立証されたのであろうが、アメリカが日本人を恐れた所以でもあろう。
2015・8・10 産経ニュース 【戦後70年~昭和20年夏(5)】
抑留者が作った極東の街 「ダモイ」夢見て寒さと飢えに耐え カエルの卵食べたらみな死んだ…
「記事内容抜粋」
  「親父と同じ苦労をして亡くなった仲間がまだ何万人も残っている。その遺骨を一人でも多く帰国させることは使命だと思います」
ロシア極東・ハバロフスク地方のコムソモリスク・ナ・アムーレ郊外。
針葉樹の森を分け入った一角で、青森県北津軽郡の会津博(74)は、大量の蚊やブヨが周囲を飛び交う中、黙々と土を掘り続けた。
中略
夜中に「ザザーッ」という不気味な音がすると誰かが死んだ知らせだった。南京虫(トコジラミ)が冷たくなった遺体を離れ、他の寝床に移動する音だった。
凍土は簡単に掘れない。遺体は丸太のように外に積まれた。
そんな安田らを乗せた帰還船がナホトカを出航したのは23年5月11日。
14日未明、灯台が見えた。「日本だ!」。
どこからともなく万歳が上がった。
夜が明けると新緑が広がる京都・舞鶴の山々が見えた。シベリアのどす黒い針葉樹林とは全く違う。「山ってこんなにきれいだったのか…」。
全員が涙を浮かべて景色にみとれた。
 
共産主義かぶれの左翼の日本人よ、シナと韓国の嘘の強制労働の裏に、ソ連による事実の日本人強制労働を隠す魂胆があるのではないのか? 日本の左翼メディアは何故、この悲惨なニュースを報じないのか? 
2015・8・10 京都新聞 
核兵器は人類に不要 被爆地撮影、故米兵の思い出語る
「記事内容抜粋」
原爆投下直後の広島、長崎両市を撮影した米海兵隊カメラマン、故ジョー・オダネルさんとの思い出を、親交の深かった奥羽キリスト教センター(盛岡市)の元館長山崎真さん(77)が語る講演会が9日、滋賀県東近江市八日市金屋2丁目の八日市図書館であった。
山崎さんは1992年にキリスト教会同士の交流で訪れた米国・テネシー州でオダネルさんに出会った。
当時、オダネルさんは残留放射能の影響で体調を崩す中、「核兵器の恐ろしさを伝えたい」と、長年しまい込んでいた被爆地の写真の公開を模索。しかし、米国で原爆は「戦争を早く終わらせるために必要だった」と肯定的に評価され、批判にさらされたという。
オダネルさんは、亡くなった弟を背中に背負った「焼き場の少年」など10枚ほどの写真を山崎さんに見せた。
長崎の爆心地を撮った写真には「大地に何も残っていない。
こんなことが許されてよいはずがない」と話したという。
山崎さんらの計らいで92年に日本で初公開され、以来、全国各地で100回近く写真展を催してきたという。
山崎さんは「核兵器は人類にとって不要と訴え続けたオダネルさんの強い意志を知ってほしい」と話していた。
 
核廃絶はどう考えても今は無理。
国際法に原爆使用は戦争犯罪と議決すればいいい。
2015・8・9 産経ニュース (1/2ページ) 上海=河崎真澄 【歴史戦】
中国、上海ユダヤ難民資料を記憶遺産申請へ 旧日本軍が保護の史実を隠蔽 「抗日戦勝70年」の一環に
「記事内容抜粋」
】戦前に欧州を追われ、上海に逃れてきた3万人近いユダヤ難民の資料を「世界記憶遺産」として国連教育科学文化機関(ユネスコ)に登録する申請作業が中国で進んでいることが8日、関係者の話で分かった。ユダヤ難民は旧日本軍が当時、上海北部の日本人居留区に「無国籍難民隔離区」を置いて保護した経緯があるが、中国側はこうした事情をほぼ封印し、「抗日戦争勝利70周年」の一環として、中国がユダヤ人保護に貢献したかのように国際社会にアピールする考えだ。
中略
日本がユダヤ難民を保護した理由として、上海社会科学院歴史研究センターの王健副所長は、「旧日本軍がユダヤ難民を当時の満州などに移住させて利用しようとした『河豚(ふぐ)計画』が背景にある」とみている。
中国は昨年6月、「南京事件」と「慰安婦」を世界記憶遺産に登録申請し、日本政府が反発している。
 
愚かなり、シナ人。
シナ人が考えそうなことであるが、大日本帝国はユダヤ人ばかりでは無い、ポーランド人も保護した。
秘密にしている訳では無く、日本人がそれだけ奥床しいと言う事を証明している事案である。
シナ人よ、この事案をネタにまたまた嘘を捏造するのか? 自ら己等の馬鹿さ加減を世界に知らしめるだろう。
2015・8・9 FNN 
太平洋戦争中、ハワイにあった日系人収容所について取材しました。
「記事内容抜粋」
戦後70年を鍵に、今を読み解くシリーズ企画「みんなで考える ニッポンはなぜ戦争をしたのか」。
日本からハワイに移住した日系人の一部は、太平洋戦争中、「日本人の血が流れている」というだけの理由で、収容所に入れられました。
ハワイで最も大きな収容所の知られざる歴史について取材しました。
中略
収容所の跡地の発見者であるクラハラさんは、オバマ大統領が「跡地を史跡に指定する」と発表した際、涙を流したという。
その後、ホワイトハウスで、オバマ大統領との面会を果たしたクラハラさん。
「収容所を忘れてはならないと思う人々の念があったからこそ、収容所の史跡指定が実現した」と話している。
 
オバマは何故、謝罪しないのか? これがアメリカ人、戦争が止まない原因でもある。
補償を受けたのだろう。
2015・8・9 NNN
長崎 きょう70回目の「原爆の日」
「放送全内容」
長崎は9日、70回目の原爆の日を迎える。爆心地に近い平和公園では平和祈念式典が開かれる。
原爆が投下され多くの人が水を求め亡くなったあの日から70年。
8日、平和公園では平和祈念式典で原爆犠牲者に捧げる「献水」用の採水が行われ、小学生から高校生の代表3人が水を汲みあげた。
  西浦上中学校3年・楠田夢翔さん(14)「未来の子どもたちに伝えるのは私たちの世代だと思う」
  長崎商業高校2年・梶聖菜さん(17)「水というものがどれだけ大切かと考えながら採水しました」
被爆70周年の平和祈念式典は9日午前10時35分から行われ、長崎市の田上市長は平和宣言で安全保障関連法案に言及し、政府に対し国会での慎重な審議を求める。 
2015・8・8 ユーチューブ 重要動画 
【原爆】日本政府は全人類と文明の名において『米機の新型爆弾による攻撃に対する抗議文』 MAXSCOPE JOURNAL
 「コメント」
ナシ
 ※日本政府のアメリカ政府に対する抗議文の朗読。
2015・8・8 ZAKZAKby夕刊フジ 重要 
【戦後70年と私】占領政策の真実 間違いに気付いていたマッカーサー ケント・ギルバート氏
「記事内容抜粋」
70年前の終戦直後、日米関係は、お互いが完全な対立軸からスタートした。
米国は、大日本帝国とは、軍国主義の独裁者が神道という宗教を利用して国民を統率する、非民主的国家であり、世界征服をたくらむ野蛮で好戦的な民族の国だと考えていた。
日本の占領政策、言い換えれば「保護観察処分」は、危険な日本を制度面と精神面の両方から矯正する趣旨で始まった。
東京裁判(極東国際軍事裁判)を通じたABC級戦犯の処罰や、戦争の贖罪(しょくざい)意識を植付ける「WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)」、日本国憲法第9条も一貫した趣旨に基づいている。
中略
最高司令官を解任されて帰国したマッカーサー元帥はワシントンに呼ばれ、1951年5月3日、米国議会上院の軍事外交合同委員会で証言した。
  「Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security(=日本が戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだった)」と。
 
アメリカ人の考え方は、愚かで浅はかである。
日本の神道をイスラム教と同じ扱いをしたのだろうか? 大日本帝国が戦った大東亜戦争の目的を知った時点で、自ずと理解出来るハズ、大日本帝国の目的を無視した。
イギリスとアメリカは間違いなく日本人への人種差別から、戦争を仕掛けたのだが、この裏にいたのがコミンテルンである。
その残骸が日本共産党でもある。
2015・8・8 ユーチューブ チャンネル桜 
1/3【討論!】大東亜戦争と戦後70年・Part1[桜H27/8/8]
2/3【討論!】大東亜戦争と戦後70年・Part1[桜H27/8/8]
3/3【討論!】大東亜戦争と戦後70年・Part1[桜H27/8/8]

「コメント」
◆大東亜戦争と戦後70年・Part1
パネリスト:
 上島嘉郎(元産経新聞社『月刊正論』編集長・ジャーナリスト)  佐藤健志(評論家)  澤村修治(評伝作家)
 富岡幸一郎(文芸評論家・関東学院大学教授)  西部邁(評論家)  西村幸祐(批評家・ジャーナリスト)
 三浦小太郎(評論家)  司会:水島総
2015・8・7 産経ニュース (1/9ページ) 【戦後70年~昭和20年夏(3)】
慰霊の心置き去りに 原爆ドーム横で「安倍は出ていけ!」 原水爆禁止運動は社共の主導で政治闘争化
「記事内容抜粋」
これに核禁会議は「大会趣旨を逸脱した」と反発し、25年以降の共催を断った。核禁会議長崎議長の松尾敬一(70)は「核兵器廃絶を世界に訴える場を相も変わらず政治運動に利用するとは」と嘆いた。
中略
翌24年の平和記念式典では、菅と同じ民主党の野田佳彦が首相として出席したが、会場には「関電大飯原発の再稼働をやめろ。
野田は帰れ!」とスピーカーの怒声が響いた。
市民の多くがこのようなつらく悲しい経験をしたが、戦後しばらくは生きていくのがやっと。
反核平和運動は盛り上がらなかった。
24年に開かれた平和市民集会は300人規模にすぎない。
それが終戦から9年後、ある事件を契機に運動に火が付いた。
中略
医師となり、「平和と安全を求める被爆者たちの会」代表として地道な活動を続ける秀はこう語った。
「被爆地の復興は苦しみを乗り越え、黙々と働き続けた人たちによってもたらされたんです。反米反日は関係ない。先人への感謝の気持ち、犠牲者を慰霊する心があるならば8月6日に政治問題を騒ぎ立てることなどあり得ないはずです」
 
左翼の政治的欲望が原爆被爆犠牲者を敗戦ビジネスへと誘導した結果、広島に左翼が蔓延った原因だろう。
被災者は今の広島の状況を嘆いている人々も多かろう。
 2015・8・7 ユーチューブ チャンネル桜 
【安全保障講座】日本人が知っておくべきもう一つのハワイの歩き方 Part1[桜H27/7/2]
【安全保障講座】日本人が知っておくべきもう一つのハワイの歩き方 Part2[桜H27/7/6]
【安全保障講座】日本人が知っておくべきもう一つのハワイの歩き方 Part3[桜H27/7/9]
【安全保障講座】日本人が知っておくべきもう一つのハワイの歩き方 Part4[桜H27/7/27]
【安全保障講座】日本人が知っておくべきもう一つのハワイの歩き方 Part5[桜H27/8/6]
【安全保障講座】日本人が知っておくべきもう一つのハワイの歩き方 Part6[桜H27/8/10]

「コメント」
米国ハワイ・真珠湾を井上和彦が訪ね、昭和16年12月8日、
先人達が国の命運を賭けて奇襲に臨んだ戦いの全容に迫ります!
今回は、現地の写真などをご紹介しながら、先人達がいかに勇壮な戦いを展開したのか、そして、日米双方に見られた軍人としての誇りなどについて、振り返っていきます。
2015・8・6 産経ニュース 
被爆70年 「過ちは繰り返しませぬ」 誓うべきは核保有国である
「記事内容抜粋」
広島は被爆70年の「原爆の日」を迎えた。
人類が初めて体験した核兵器の惨禍を知る被爆者の平均年齢は今年、80歳を超えた。
遺族も高齢化している。
長崎とともに被爆地が訴え続けてきた「核兵器廃絶」は、いまだ道筋が見えない。
ロシアのプーチン大統領は、昨年のクリミア併合の際に、あろうことか核使用の準備も指示したと述べた。
核戦力の増強を図る中国は、海洋覇権を狙い周辺国に脅威をばらまいている。
北朝鮮は変わらず核開発に狂奔する。
  ≪慰霊の政治利用許すな≫
中略
5年に1度の核拡散防止条約(NPT)再検討会議は成果なく終わり、核軍縮・不拡散の交渉は停滞している。
脅威が存在する現実を直視せねばならない。
来年の伊勢志摩サミット(主要国首脳会議)に先立つ外相会合は広島が舞台となる。
この機会に、ホスト国で唯一の被爆国の日本が果たすべき役割は大きい。
 
広島原爆記念公園の碑文を目にしたのは小学生時代、主語のない碑文に「誰が!」と思った事を未だに覚えている。
今だから言えるが、この時、私が先生に「誰がですか?」と質問すればよかったと思っている。
先生がどう反応したのか? 興味がある。
しかし、これは昔話、私が後悔している一つである。
日本から嘘を無くそうよ! 
2015・8・5 産経ニュース  【戦後70年~昭和20年夏(1)】 
街が一瞬で消えた…紫電改操縦士が見た原爆の惨禍 トルーマンが突きつけたポツダム宣言の真意とは…
「記事内容抜粋」
昭和20年8月6日午前7時45分、22歳だった第343海軍航空隊(通称・剣部隊)少尉、本田稔=大津市在住=は、兵庫県姫路市の川西航空機(現新明和工業)で真新しい戦闘機「紫電改」を受け取り、海軍大村基地(長崎県大村市)に向けて飛び立った。
高度5000メートル。
抜けるような青空が広がり、眼下には広島市の街並み、そして国宝・広島城が見えた。
その瞬間だった。
猛烈な衝撃にドーンと突き上げられたかと思うと紫電改は吹き飛ばされた。操縦桿(かん)は全く利かない。
必死に機体を立て直しながら地上を見て驚いた。
 「街がない!」
広島の街が丸ごと消えていた。
傾いた電柱が6本ほど見えるだけで後はすべて瓦礫(がれき)。
炎も煙もなかった。
やがて市中心部に真っ白な煙が上がり、その中心は赤黒く見えた。
白い煙は猛烈な勢いで上昇し、巨大なきのこ雲になった。
 「弾薬庫か何かが大爆発したのか?」
そう思った本田は大村基地に到着後、司令部に事実をありのまま報告したが、司令部も何が起きたのか、分からない状態だった。
中略
トルーマンは死ぬまで自らの行為を正当化し続けた。58(昭和33)年2月、米テレビで原爆投下についてこう語った。
 「日本への上陸作戦には150万人の兵力が必要で25万人が戦死すると推定された。だから強力な新兵器を使用するのに何ら良心の呵責(かしゃく)を感じなかった。夜もぐっすり眠れた…」
 
人種差別、東洋の黄色い猿、憎くて憎くてたまらず仕掛けた大東亜戦争、アメリカ人に良心、奴隷解放からたかが70年足らず、良心の欠片もあるハズが無かろうに・・・アメリカが大日本帝国の戦歴に事後法と多くの嘘を持ち込み断罪した事からも容易い推測である。
2015・8・4 産経ニュース
戦後70年に思う 「英霊」に恥じない日本の創造を 文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司
「記事内容抜粋」
  《「明治の精神」につながる来歴》
6月1日に町村信孝前衆院議長が70歳で亡くなったとき、もう10年くらい前、フジテレビの「報道2001」に出演された際に語られた印象深い言葉を思い出した。 
靖国のことを問題にしていたときだったが、町村氏はこういう風に政治の問題として議論の対象にしてしまうのは、英霊に申し訳ないことだと思っているという意味のことを言われた。
これは、「戦後70年の今日の日本における、大東亜戦争についてのあれこれの言説」 に対する頂門の一針ともいうべきものである。 
「英霊に申し訳ない」という感覚が欠如したところで云々(うんぬん)される言論は、内容の如何(いかん)にかかわらず、この一点だけで、歴史に対する不敬なのである。
  《「平和的腐敗政策」を怖れる》  《失われた独立自存の矜持》
中略
山田誠也青年が「一生忘れ得ぬ声」といった玉音放送の原盤が公開された。
この「悲痛な声」は「歴史の決定的瞬間」の記録である。
8月15日にはこの日本の歴史の奥底からの「声」を謹聴して、戦後の原点にたち返り、今度こそ「英霊」に対して恥ずかしくない「鋼鉄のような日本」を創造することを決意しようではないか。
 ※日本は今、平和的腐敗の真っ只中である。
誰の責任なのか? それは心無い負け犬根性丸出しの敗戦利得者である。
戦後70年、敗戦利得者は嘘を用いて敗戦利権を生み育て拡大し続けている。
それが今の日本の姿である。
2015・8・3 産経ニュース (1/4ページ) 【正論】 
戦後70年に思う 「終戦の詔書」に残る深い傷痕 東京大学名誉教授・小堀桂一郎
「記事内容抜粋」
先帝陛下の「終戦の詔書」を奉戴してより満70年の記念日が近づいて来る。
この詔書を斯かる題で呼ぶのは〈吾等は…日本国に対し今次の戦争を終結するの機会を与ふることに意見一致せり〉とのポツダム宣言の冒頭句を受けた形で陛下が戦争を終結する手続に着手せよ、との勅命を政府に下し給うたと見る故に名づけた事である。 
  ≪国民の耳に達した玉音放送≫  ≪最大の眼目は何だったか≫  ≪「義命」知らぬ戦後政治≫
中略
ところがこの詔勅文案が8月14日午後、詔書正文を決定する最後の閣議にかけられた段階で〈義命〉といふのは辞書に載つてゐない難しい語だとの苦情が出て削除され、代つて現行本文の如く〈朕ハ時運ノ趨(おもむ)ク所…〉といふ表現に替へられ、〈万世の為に太平を開く〉といふ究極の字眼はその大前提を失つて宙に浮いてしまつた。
事情を知つた安岡氏は〈学問のない人にはかなひません〉と長大息したが後の祭だつた。
以上の経緯は最近安岡氏の門弟筋の関西師友協会が編纂した『安岡正篤と終戦の詔勅』(PHP研究所刊)に詳しい記述があるので正確な理解を期したい向は参照されたい。
いづれにせよ、この字句の改変によつて先哲の苦心の修辞は台無しになつてしまひ、戦後の政治は〈義命ノ存スル所〉には関心を向けること無く専ら〈時運ノ趨ク所〉に追随して流されるがままになつてしまつた。
安岡氏の嗟嘆(さたん)は筆者も心中深く共有するところである。
 
雑記帳の作成を始め多くの事実を知った。
今思えば、己が宝飾品業界に携わり、何も結果を出せぬまま、人生の終末に近づきつつあるが、事実を知る事の重要性を今更ながら認識している。
事実を知る喜びを味わい爽快感がある。
江戸時代、明治、昭和、平成と日本人の考え方が大きく変化した。
いい方ならいいが、間違いなく悪い方へと変わっている。
これがアメリカの民主主義、新自由主義なのか? 何かが違う。
子供の頃、爺さん、婆さん、親父、お袋から、嘘を言うな、正直に生きろと育てられたが、この世の中、嘘だらけ。
嘘を嘘だと言えない世の中、腹立たしい限りである。
2015・8・3 遠藤誉 東京福祉大学国際交流センター長、筑波大学名誉教授、理学博士
兵力の10%しか抗日に使うな!――抗日戦争時の毛沢東
「記事内容抜粋」
習近平総書記は中共中央政治局の抗日戦争に関する学習会で「歴史資料の収集と整理」をするよう指示したが、抗日戦争時、毛沢東が中共軍の兵力の10%しか抗日に使ってはならないと言ったことを正視できるだろうか?
  ◆兵力の10%しか抗日戦争に使ってはならないと命令した毛沢東
    中日の戦いは、我が党の発展にとって絶好の機会だ。われわれが決めた政策は「70%は我が党の発展のために使い、20%は(国民党との)妥協のために使う。残りの10%だけを対日戦争のために使う」ということである。
  ◆情報の信憑性を求めて台北へ
この情報は1977年に梅良眉氏が著した『対日抗戦期間中共統戦策略之研究(対日抗戦期間における中国共産党の統一戦線戦略の研究)』(正中文庫)の第三章第四節「毛沢東が八路軍に出した秘密指示」(41頁~42頁)に書いてある。
ただ、この情報には引用文献があり、そこには
    ●『剿匪(しょうひ)戦史』第十一冊、1035頁(剿匪:中共掃討。蒋介石側から見れば中共は政府への反逆者なので匪賊と称していた。共匪とも)
    ●『中共党的策略路線(中国共産党の戦略路線)』、張浩之講演原稿付録  とある。
  ◆百団大戦を戦った彭徳懐は粛清された
  ◆習近平総書記のスピーチ
    中国共産党の重要な役割が中国人民抗日戦争を勝利へと導いた要などの重要な問題に対し研究を行うと同時に深入りした解釈をするべきだ」
中略
中国共産党が抗日戦争で果たした役割が、どのようなものであったか? 冷静に科学的に研究していく勇気を中国は持ってほしい。
それは決して日中戦争を起こした日本を正当化することにはつながらない。
しかし中国が「中国共産党こそが抗日戦争の前面で戦い、抗日戦争を勝利に導いた」として歴史認識カードを日本に突きつければ突きつけるほど、日本では嫌中家が増え、中国が批判している「日本の右傾化」をうながす。
中国は本気で日本の右傾化を嫌っているのだろうか?
もしそうなら、「中華人民共和国は抗日戦争中、第一線で戦っている国民党軍を影からやっつけ、1945年8月15日以降は真正面からやっつけて、1949年10月1日に誕生した国である」ことを、直視すべきだろう。
 
毛沢東は、国民党軍に狙いを定め兵力を温存し、大東亜戦争が終結す時を辛抱強く待っていた。
毛沢東は大東亜戦争終了と同時に、シナ大陸の覇権を賭けた戦争へ突入するのだが、そこに現れたのが、蒋介石を捨てたアメリカである。
アメリカはこの時、何を考えたのか? 毛沢東に軍事援助を開始する。
後にマッカーサーは、この毛沢東への軍事援助が、アメリカ最大の過ちと議会で証言している。
数日前、アメリカ国務省だったか? 戦後70年の軍事パレードにシナからアメリカへの招待状が届いていない事を明かした。
アメリカを招待すれば、抗日戦勝70周年が嘘とバレる。
抗日70周年は嘘なのだが・・・シナは嘘を積み重ねて行くと、何時か、シナ共産党が綴る歴史が嘘とバレる日は近いだろう。
2015・8・2 時事通信 
中国が指定した日本人戦犯
「記事全内容」
   【第1次(1945年10月)】
▽土肥原賢二(奉天特務機関長)★▽谷寿夫(第6師団長)▽橋本欣五郎(陸軍大佐)★▽板垣征四郎(陸相)★▽畑俊六(中国派遣軍総司令官)★▽東条英機(陸相・首相)★▽影佐禎昭(中国派遣軍総司令部付)▽酒井隆(第23軍司令官)ら11人
   【第2次(46年1月)】
▽南次郎(陸相)★▽荒木貞夫(陸相・文相)★▽平沼騏一郎(首相)★▽阿部信行(首相)▽米内光政(海相・首相)▽小磯国昭(首相)★▽嶋田繁太郎(海相)★▽広田弘毅(外相・首相)★▽松岡洋右(外相)★▽東郷茂徳(外相)★▽梅津美治郎(関東軍総司令官)★▽松井石根(上海派遣軍司令官)★▽寺内寿一(陸相)▽牟田口廉也(第18師団長)ら21人
(注)★は極東国際軍事裁判でA級戦犯として起訴。 
 
※時事通信に物申す! 中国ではないだろう、嘘を記載するな! 中華民国の蒋介石だろう! シナ共産党と中華民国を一緒にするな! 時事通信は何か意図があるのか? この記事を書いた記者は名を名乗れ! 無責任な記事を配信するな。
2015・8・2 時事通信 注目記事 
戦犯リストから消えた「天皇」=米国追随と共産化防止―蒋介石が早期決定・中国
「記事全内容」
日本との戦争最終局面の1945年6月、当時中国を統治した中華民国・国民政府が作成した日本人戦犯リストのトップに「日皇裕仁」(昭和天皇)が掲げられたが、終戦直後の9月のリストからは消えていたことが分かった。
蒋介石主席の意向で決まったもので、連合国・米国に追随する方針のほか、共産主義の拡大防止という背景があった。
米スタンフォード大学に保管される「蒋介石日記」でも同年10月下旬、「日本戦争犯罪人を既に裁定した」と記されており、終戦後の早い段階で「天皇免訴」が決定していた。
時事通信が中華民国の外交文書を公開する台湾の「国史館」や国民党史料を所蔵した「党史館」で入手した複数の戦犯リストや内部文書のほか、「蒋介石日記」の記述で判明した。
国民政府は終戦前から、戦犯リスト策定に着手しており、45年6月に軍令部が「侵戦(侵略戦争)以来敵国主要罪犯(犯罪人)調査票」を作成。
戦犯トップに「陸海空軍大元帥」として「日皇裕仁」を掲げ、「侵略戦争の主犯・元凶」と明記した。
日本の軍国主義による侵略の根源が天皇にあるとの見方は中国で根強く、議会に相当する民意機関「国民参政会」も7月17日、「天皇を戦争犯罪人に指名する」決議を可決した。
これに対して蒋介石は「日記」で9月21日、「当面の急務」として「戦争犯罪人(決定)」を挙げ、10月8日には「外交急務」として「日本軍戦争犯罪人の決定」と記した。
同月14日に東条英機(元首相)ら12人を「特務工作の悪事を尽くした」として戦犯指定した。
「日記」からは蒋介石の意向が選定に反映されていたことが分かり、9月の戦犯リストから天皇の名前は除外されていた。
蒋介石が「戦争犯罪人決定」を「急務」とした10月8日、国民参政会の決議に対し、戦犯問題を調査した司法行政部と外交部は天皇の戦犯認定について「蒋主席とトルーマン米大統領が、日皇の運命は日本の民意が自ら選択すべきであると共に表明した」と否定的な方向に傾いた。
また当初、天皇を戦犯リストに掲げた軍令部は「皇室は将来的に日本の侵略国策を復活させる源泉だ」としつつ、「同盟国(連合国)によるポツダム宣言の円滑な命令執行と、共産主義勢力拡大の防止」のため、天皇免訴が必要だと方向転換した。
最終的には蒋介石の統括する国防最高委員会が45年12月28日、「日本問題処理の意見書」を決定。
「同盟国の誤解と日本人の反感を回避」するため、「天皇と天皇制存廃の問題は、原則として同盟国の共同意見に従い処理する」との方針を確定した。
蒋介石政権は46年5月からの極東国際軍事裁判(東京裁判)に向け、東条ら計32人の戦犯リストを2回に分けて連合国軍総司令部(GHQ)に提出した。
 ※蒋介石は大日本帝国に講和をちらつかせながら、多くの事を探っていた可能性もある。
蒋介石は戦争らしい戦争をしていないが、早くから戦勝国面していたのだろう。
南京大虐殺は蒋介石のでっち上げの可能性は拭い切れない。
戦争犯罪がこの時点で記載されている方がおかしい。
戦争犯罪は事後法、南京大虐殺、大日本帝国のシナ大陸侵略、これらは、カイロ宣言で話し合われた可能性がある。
日本帝国が侵略しただと、天皇を免訴する代わりに濡れ衣を着せたのか? 大日本帝国軍の戦歴の捏造過程が解明される資料はアメリカの図書館に保管されている可能性があるハズである。
2015・8・1 ユーチューブ 
そこまで言って委員会NP 8月2日太平洋戦争とは何だったのか?
「コメント」
ナシ
 
これも盧溝橋、これは間違い、済南事件から既に大日本帝国とシナは戦争に突入していたが、人のいい大日本帝国は、シナとの戦争に踏み切れなかった。
2015・8・1 産経ニュース  編集委員 宮本雅史
第2部(4)「戦友の思い伝えよう」 90歳まで生き抜いた知覧の“顔”
「記事内容抜粋」
5月3日、鹿児島県の知覧特攻平和会館で、61回目の戦没者慰霊祭が開かれた。
時折激しく降る雨の中、遺族ら約1000人が参列したが、その中にいるべきはずの人の姿がなかった。
元陸軍特攻隊員で知覧特攻平和会館の初代館長、板津忠正さんだ。
毎年必ず慰霊祭に参列、知覧特攻の“顔”でもあったが、慰霊祭を1カ月後に控えた4月6日、慢性心不全の急性増悪のため90歳で亡くなった。
     ×  ×
筆者が初めて、板津さんに会ったのは十数年前。
遺族らを相手に、身ぶり手ぶりを交えて出撃を控えた特攻隊員の様子を再現する張りのある声は今も耳に焼き付いている。
  「250キロ爆弾を抱えた特攻機は(滑走路の)端から端までいってようやく浮き上がり、上空で編隊を組み、下で見送る整備士、住民に翼を振り開聞岳の方向に飛び去った」
中略
特攻隊をテーマに取材を進めると、平和を享受して今を生きる私たち日本人は、護国という大義のため自らの命をささげた特攻隊員の思いと、彼らが背負っていった当時の日本人の思いも背負っていることに気づく。
英霊に対する感謝、顕彰はもちろんだが、それ以上に継承、そして自問自答を迫られているような気がするのである。
 
日本は、靖国に眠る多くの英霊のお蔭で、世界の多くの国々から恩恵を受けているのである。
シナは嘘つき、日本がシナに加担すれば、世界の国々は日本に失望するだろう。
多くのアジアの国々の方々は、村山元総理を嘆いているのである。